武蔵野新田の歴史に協同の心を読む
木村 快

 『武蔵野の歌が聞こえる』はこれまで17公演が行われ、観劇された方々から622通に及ぶ感想や批評をいただいている。 多くは自分たちの街の歴史を初めて知ったという感動や激励だが、史実の誤解があるのではないかという意見もいくつかあった。
 川崎平右衛門プロジェクトは2010年2月に「自分たちの街の歴史を、広く市民に知って貰おう」という意図で始まった。そこで、提起された疑問に対して、私達なりの考え方を述べておきたいと思う。
 この作品は史実に沿って構成されているが、従来の通説とは違った角度から史実を検討している。

◆描かれる時代を新田開発の時期に限定せず、大災害・大飢饉の連続した宝永から享保にかけての時代に設定。徳川吉宗、大岡忠相、平右衛門、三者とも大災害の現実と対処しながら人格を形成しているからである。
◆従って「享保の改革」は災害復興、元禄バブルからの幕府の自立を目指す性格を持っていたと考える。
◆「新田開発」は幕府にとっては単なる事業だが、過酷な不毛大地の開拓に従事した農民の視点で考える。
◆平右衛門は水害対策を担う村の指導者であり、常に協同を組織する役割を担っていた点を重視する。最先端の数学的知識と水利技術を駆使した実績がある。
◆作品のテーマは、幕府が失敗した新田開発を、なぜ回復させ、発展させることが出来たのかに置く。
1、史上最大の災害、大飢饉の連続した時代
 武蔵野新田開発を担った川崎平右衛門の育った時代は、元禄大地震、宝永大地震、富士山の大噴火、浅間山の連続噴火による気候寒冷化で関東一帯の農業が大きなダメージを受け、飢饉、凶作が相次いだ時代である。  
 平右衛門は多摩郡押立村有力農家の跡継ぎとして、10歳のときに元禄大地震、14歳の時に宝永大地震と富士山大噴火、浅間山噴火を体験している。  
 元禄16年の大地震(M8.2)は関東地方で死者不明者6,700人、被災戸数2,800戸の大被害を出している。  
 その4年後は日本史上最大の宝永大地震(M8.6-9.0)が発生。太平洋沿岸は大津波に襲われ、富士山の大噴火で多摩郡一帯は数十センチに及ぶ火山灰が降り積もったと記録されている。押立村近辺(現・府中市)でも発掘調査によると10センチ前後の降灰が推定され、火山灰を埋め立てた土坑が30地区で発見されている。(『多摩のあゆみ』185号より)  
 江戸時代の経済は石高制であるが、その土台である水稲栽培は5ミリの降灰でも生産に大きな障害があると言われる。享保の改革ではこうした災害からの復興として新田開発が重視された。平右衛門が米作以外の代替作物として桃、梨、栗などの果実の研究に打ち込んだのもそのためと考えられる。


2、役人支配の新田はなぜ破綻したのか
 火山灰の蓄積した武蔵野台は農耕には不適な地帯である。その不毛の地に新田を開発することは、農民に大変過酷な「開拓生活」を強いた。そのため、幕府の役人による新田開発は17年たっても進捗せず、ついに元文3年から4年にかけての連続凶作では農民の離散が相次ぎ、壊滅状態に追い込まれる。  
 通説では平右衛門がこの崩壊した新田村を復興させたのは、利殖的商才を発揮したからだという。府中市郷土の森博物館編の『代官川崎平右衛門』でも新田開発の成功を「このように代官所主導の下に積極的に資金運用する平右衛門の方法には、象洞(ぞうぼら) 販売で見せた商人的利殖の才と、『貯める』ことで豊かになろうとする農民的発想とが、村役人として培ったリーダーシップで生かされたといえましょう」と締めくくられている。  
 だが私たちは、新田を復興させたのは利害的結合ではなく、平右衛門が農民本来の協同力を引き出した点にあると考えている。幕府の政策の失敗は、農民が農民としての力を発揮できる村の育成を軽視したからである。  
 農民は数で計れる存在ではない。新田村は各地から集まった経験の浅い寄せ集め農民である。村としての結束がないままに凶作に襲われると、離散せざるを得ない。  
 新田開発の総責任者大岡忠相は役人による開発指導をあきらめ、百姓身分だった平右衛門に実態の調査と開発の可能性を検討させる。大岡は平右衛門の何を信頼したのだろうか。商人的利殖の才能なのか、それとも水害対策を担う村のリーダーとしての調査能力と、村民に協同を実現させる力を持った人物と見たからなのか。  
 調査の結果、平右衛門は現状のままでの新田の回復は不可能だと判断し、まず農民自身が自立出来るよう、村民全体の協同作業による村づくりを進言する。  
 平右衛門は大人も子供も老人も一丸となった村づくりの喜びを実感させながら、支配型の管理から「養い料金」制度と呼ばれる自立した協同管理の仕組みへと転換させ、村々に新しいリーダーの育成を図った。かくして、広大な82ヵ村の新田復興と開発は軌道に乗りはじめた。


3、平右衛門の象洞(ぞうぼら)販売
 前記した「平右衛門の象洞販売で見せた商人的利殖の才」とは、江戸で痘瘡(とうそう・天然痘)が大流行したとき、幕府が飼育していた象をもてあましていることを知った平右衛門が、象の糞を予防薬として販売する許可を得て大儲けしたとの話が 残っているらしい。  
 痘瘡は治癒不可能な業病として恐れられていた。緒方洪庵が予防薬として牛痘種法を確立したのは120年も後のことである。幕閣でも対策を検討し、予防薬として牛糞を漢方薬にする白牛洞(はくぎゅうぼら)の検討もしており、象洞もそれに併せて試行したものと思われる。しかし、それは幕府の御殿医による判断を待たねばならず、町人の発意で進められたとは考えられない。  
 象洞の製造は平右衛門の発意ではなく、吉宗の側用人加納久通の意向であり、幕府財政逼迫のおり、大岡忠相が平右衛門に製造販売を依頼したと考える研究者もいる。幕府の依頼を受けて、平右衛門らは淀橋において製造したと言われている。(セミナー「川崎平右衛門とその時代」・野田政和氏)


4、平右衛門をどう見るか
 私たちは「平右衛門がすすめた『養い料金』制度は協同の先駆であった」と主張した。これに対して、「『養い料金』制度は代官所で行われた指導であり、参加の自由や退会の自由を前提とする協同組合の先駆であるかのような表現は観客に誤解を与える」という批判が出ている。これは 「代官所の指導だから百姓は否応なく従ったのであり、自発的な参加ではなかった」とする意見のように思われる。ここでもまた、新田開発の成功を平右衛門の商人的才覚で語るのか、それとも百姓の自立協同を促した結果と見るかが問われている。  
 私達は大岡が「新田開発の儀、平右衛門の心一盃に進めることを許す」と承認したのは、人間の営みを全面的にとらえる平右衛門の生き方を信頼したためと考える。  
 平右衛門の最大の功績は、百姓本来の協同の心を信頼し、それを自立した村の形に結実させ、文化として定着させたことにある。私達はそこに、江戸史における協同活動の源流を見る思いがするのである。


5、知られざる平右衛門の実像
◆協同を説く平右衛門  
 府中市で平右衛門の事績調査に努力された渡辺紀彦氏(故人)の著書『代官川崎平右衛門の事績』には教えられることが多かった。氏は古文書の解釈だけでなく、その背後の事情を調べるため、実際に現地を視察され、岐阜県穂積町史に残る記録を含め、聞き書きをまとめておられる。それによると、代官として美濃国(岐阜県)に赴任した平右衛門は、木曽川、長良川からの逆流水害を防ぐ水門の建造に取りかかる。だが、80に及ぶ輪中(支流で囲まれた小集落)は水門をどこに設置するかで利害が対立し、まとまらない。通説では平右衛門は「一日で説得した」ことになっているが、実は5年間にわたって農民の意見を聞き、協同事業とするよう説得をつづけている。全体でまとまった案は経費がかかりすぎ、幕府からの資金は出なかったが、輪中一同は平右衛門を信頼し、結束して自費での建設に踏み切っている。

◆改革期が生んだ人材  
 商品経済が普及した元禄期は社会の腐敗が進み、人間本位の新しい思想が求められた時代であった。渡辺紀彦氏は伝聞として「(平右衛門)定孝は幼い時から学問を好み、暫時江戸に於て有名な漢学者、河村瑞賢、伊藤仁斎等に師事し、勉学した」と書いている。直接師事したとは考えられないが、当時の塾で、形式化した儒学に人間的な見直しを求めた伊藤仁斎や、航路の調査と改革に貢献した瑞賢の思想は熱心に講義されていたと考えられる。人間性回復をめざす生き方と科学的な調査手法を学んだことは、少年に強い影響を与えたはずである。  
 平右衛門は物事を調査するとき、儒学の五常「仁・義・礼・智・信」を使って5段階に分類する習慣があった。治水を担う家に伝わった手法であろうが、儒学的モラルと高度の治水技術や数学的知識を身につけた平右衛門は、破綻しかかった石見(島根)銀山でも採掘法を改良し、協同のシステムを実現している。まさに享保の改革を進める徳川吉宗や大岡忠相が探し求めた人材であった。


6、市民感覚で歴史を見直せ
歴史からどのように教訓を学ぶかは時代によって違う。高度成長期の利害中心社会の視点からすれば、平右衛門は目から鼻に抜ける利殖の商才を身につけた人物と見えたであろうが、震災からの復興もままならず、展望の見えない時代を迎え、今後予想される厳しい試練にどう対処すべきか思い悩む現代では、先人たちがどのように困難と闘ったのかをこそ学びたいものである。


作成日: 2016年3月1日