御栗林
 押立村名主平右衛門が、自ら開発した押立新田(小金井市東町)の一部の三万六百坪を幕府に献上したのは元文のころ(1736~41)であった。ここに幕府は「御栗林」として数千本の栗木を植え付け、周囲を土手と防風林で囲み、南側に用水路を引いた。
 川崎平右衛門の事績を記した高翁家録などによると、収穫した栗実のうち精選した二千粒余を幕府に献上し、残りの大部分は新田の人々に分配された。飢饉に苦しむ人々に食料の足しとなるし、余れば江戸で売って金も稼げるだろうと考えたからであった。また御栗林として献上すれば年貢の面で優遇されることもあるだろうと才覚も働いたという。
 御栗林の栽培や管理は、付近の十ケ所の新田(下小金井、関野、梶野、丼口、野崎、大沢、境、関前、上保谷、田無)に任され、嘉永5年(1852)に大規模な補修が行われ明治維新まで続いた。
 この地域の十ケ新田栗林の字名となり昭和34年の町名変更まで残った。また、栗の栽培技術は周辺にも広がり、小金井地域は栗の特産地となり、関野栗(五郎兵衛栗)、貫井栗などと呼ばれた。
 
御栗林地図 小金井市東町地図 小金井市東町地図
(織壁哲夫)