川崎平右衛門の生涯と足跡
  川崎平右衛門の銅像 川崎平右衛門は、1694年(元禄7年)3月15日に武蔵国押立村の名主・川崎家の長男として出生した。9歳のとき(1703年12月31日)に元禄大地震、13歳のとき(1707年10月28日)に宝永大地震、その49日後に富士山宝永噴火に遭っている。大地震と降灰により農業は大打撃を受け、名主の家で育った平右衛門の少年時代に大きな影響を及ぼしたと推察される。
 享保の改革を断行した徳川吉宗と吉宗に抜擢されて町奉行と関東地方御用掛及び寺社奉行に任命された大岡忠相は平右衛門の生涯に大きく関わってくる。日本に初めて輸入された象の糞を薬にした象洞の発売や農民救済のために始めた栗の生産と幕府への栗の献上は、大岡の目にとまり、平右衛門が武蔵野新田開発に関わることにつながった。
 武蔵野新田開発では窮状の百姓を救い、「畑養料」、「芝地開発料」といった新しい方法を創出し、百姓のやる気を喚起させた(詳しくは「武蔵野のうたが聞こえる」をご覧ください)。 
 玉川上水両岸に吉野と桜川から取寄せた山桜は後世名勝小金井桜として江戸から花見客を呼び、文芸作品や浮世絵を生んだ。
 武蔵野新田開発中に玉川上水と多摩川が大規模に出水し、それを防ぐ難工事を成功させた。この成功によって、しばしば大洪水を起こす木曽川・長良川・揖斐川の治水工事を命じられ美濃国に赴任した。しかし、徳川吉宗も大岡忠相もすでに他界しており、平右衛門の提案があったにもかかわらず、幕府は治水工事を薩摩藩に命じた(薩摩藩の財力を低下させる目的があった)。しかし、莫大な資金をつぎ込んだあげくに多くの犠牲者を出して薩摩藩の工事は失敗した(宝暦治水事件)。その後、平右衛門は徹底した現地調査と農民の声を聴き、新しい方法を創出して治水工事を成功させた。
 美濃国から関東代官として江戸に戻り、その2年後に石見国大森代官となり、石見銀山に赴任した。無名異と言う薬の開発と販売を行ったり、拾分一銀(稼方御手法)という経営手法を創出して銀山に関わる人々を助け、銀山を再興した。
 大森代官は子息が継承し、平右衛門は江戸に戻った。翌年、勘定吟味役と諸国銀山奉行となってまもなく永眠した。幕府の勘定吟味役や全国の鉱山運営を指揮する立場になり、これからというときに惜しまれる急逝であった。  
川崎平右衛門銅像 府中郷土の森博物館
 

 川崎平右衛門が活躍した場所(赴任地)ごとにまとめると、府中時代、小金井時代、美濃国(岐阜県)時代、石見銀山(島根県)時代、そして晩年の江戸での勤めに分類される(下表)。
 平右衛門は、押立村からほぼ真北に1里あまり離れた押立新田(現在の小金井市東町4丁目一帯)に山梨から取り寄せた栗木苗数百本を植樹した。それは数年後に栗林となった。これが武蔵野新田の一斉検地をしていた大岡忠相の目にとまった。成長期を紀州で過ごした将軍吉宗が栗が好物であったことから、大岡は栗実の献上を命じた。これを受け、平右衛門は栗林を江戸城に献上する御用栗を栽培する御栗林にする伺書を大岡に提出した。御栗林とすることで年貢対象から除外される目算もあった。こうした経緯から、御栗林は平右衛門が武蔵野新田開発世話に関わることにつながってゆく。小金井に来たのは、新田開発を命じられて家督を弟に譲ってからであるが、下表では御栗林の武蔵野新田開発へのつながりから御栗林を小金井時代に入れた。
年齢 赴任地 主な仕事
0〜43 府中 押立村地主
43〜55 小金井 御栗林
武蔵野新田開発・玉川上水と多摩川の堤防工事
小金井桜
55〜66 美濃国 木曽川・長良川・揖斐川の治水工事
66〜72 石見銀山 石見銀山の再興
72〜73 江戸 勘定吟味役、諸国銀山奉行
(大橋元明)