武蔵野新田開発
   享保七年(1722)、幕府は「享保改革」の一事業として、新田開発を奨励、江戸日本橋に高札を立てた。これを契機に全国各地に新田開発が盛んにおこなわれるようになった。武蔵野台地にも新たに八二か村の新田村が誕生した。しかし、初めのころの幕府役人は、年貢取り立てを厳しく行ったため百姓たちの反感をかい開発は行き詰まり見せた。
 この時新たに就任したのが大岡越前守忠相の部下の町奉行与力上坂安左衛門であった。折しも元文三年(1738)から翌年にかけて武蔵野は大凶作に見舞われた。作物がまったくできず、百姓たちは流出、悲惨な状況となった。
 この時、以前より知っていた「地方巧者(地域や農業生産に精通している者)」の押立村名主平右衛門に助力を求めた。平右衛門は、自ら備蓄した穀類を含め御救米を小金井橋で支給し急場を救った。この功により苗字帯刀を許され元文四年(1739)に新田世話役に任ぜられた。
 平右衛門は、まず井戸の掘削や溜井の造成に百姓を動員、その代償として夫食 (食糧)を仕事の内容によって支給した。
また援助は現金ではなく〆粕、干鰯などの 肥料を貸与し、その返済は穀物とした。
 さらに飢饉に備えるため夏秋の収穫時に大麦、小麦、稗、粟などを一、二割ほど高く買い上げ貯蔵させた。これは養料金并溜雑穀として幕末まで続いた。畑地には鳩麦、紫草(染料)、芍薬(薬草)、林には杉、檜、松、栗などを栽培させ、現金収入の道も試みた。
 離散した百姓を立ち帰らせるために、新田に立ち戻り実績をあげた農民には「立帰料三両」を与えた。
 こうした川崎平右衛門による新田経営によって武蔵野新田の開発は軌道にのったのだ。
 
(織壁哲夫)