合唱構成劇  武蔵野をひらいた川崎平右衛門
  「武蔵野のうたが聞こえる
企画/制作 NPOシニアSOHO小金井 NPO現代座
脚本・演出:木村 快  音楽:福沢 達郎
協力:「武蔵野のうたが聞こえる」上演サポーター
後援:小金井市、小金井史談会、小金井市商工会、小金井市商店会連合会、
   東京むさし農業協働組合
 元禄期の放漫政治により幕府は財政難に陥っていた。追い打ちをかけるように1703年の元禄地震、1707年の宝永大地震と富士山大噴火、相次ぐ自然災害によって幕藩体制は瀕死の状態になった。そこに徳川8代将軍として吉宗が抜擢された。吉宗は大岡忠相を登用して復興にあたらせ、忠相は身分制度を超えて現場と農民を熟知した川崎平右衛門に新田開発を任せた。危機的困難を乗り切ったこの時代は日本社会の大きな転換期となった。
 武蔵野新田開発は、初期には農民の離散を招き、挫折の危機に直面した。そこに登場した平右衛門は、「お救い米配り」、「畑養料」、「芝地開発」、「立ち帰り料の支給」など様々な施策を通して、農民自身の自立と助け合い精神を育て、「協同の村」を完成させ、新田開発を成功させた。
 300年前の「幕府の危機的財政難、宝永大地震、富士山大噴火と降灰」と今日の「1000兆円を超える借金と財政難、東日本大震災、福島第1発電所メルトダウンと放射能汚染」は、状況がどこか似ている。それまで上から目線のやり方で失敗した新田開発を見事に成功させた川崎平右衛門のやり方は、時代を超えて学ぶことがあるのではないだろうか。 
 
 合唱構成劇「武蔵野のうたが聞こえる」は、川崎平右衛門が、現場に則した新しい知恵を編み出し、人々の心をつかみ、農民の助け合いによる協同の村づくりによって、それまで困難を極めた武蔵野の新田開発を成功させて行く物語である。
あらすじ
代官川崎平右衛門
川崎平右衛門肖像画
主な登場人物
 川崎平右衛門
1694年(元禄7年)府中押立村名主川崎家長男として出生。武蔵野新田開発、美濃の国の治水事業、石見銀山再興を成し遂げ、諸国銀山奉行、勘定吟味役となる。1767年(明和4年)没(74歳)



 徳川吉宗
 大岡越前の守忠相
 上坂安左衛門政形
①宝永大地震と富士山大噴火、吉宗による享保の改革始まる
富士山宝永火口
富士山宝永火口
 江戸中期、日本列島は1703年の元禄大地震、1707年の宝永大地震、富士山大噴火と史上最大の災害に見舞われた。幕府に復興を進める力はなく、吉宗が8代将軍に就任したとき、幕藩体制が維持困難なほどの赤字財政に陥っていた。吉宗は、財政再建の柱として年貢増収を目的とした新田開発に力を入れた。大岡忠相を南町奉行に抜擢し、併せて新田開発を行う地方奉行(じかたぶぎょう)を命じた。
②進まない新田開発の危機 村から人が逃げてゆく
 新田開発は3年過ぎると年貢を払わなければならず、厳しい取り立てが始まった。武蔵野新田は14年目になってやっと検知が終わり、計画が立てられるようになった。しかし、その翌年から雨が降らず、2年続きの凶作に見舞われた。働ける者はみな江戸に出稼ぎに出て、女子ども年寄りが残され、人も馬も次々餓死し始めた。 危機的状況の打開に、大岡は、土地、農業、百姓のことを良く知り、百姓をまとめられる人材を探していた。
③大岡忠相、平右衛門の才覚に目をつけ、農民救済に当たらせる
 当時、平右衛門は、吉宗がベトナムから輸入した日本ではじめての象の糞を幕府の許可を得て「象洞」という薬にして販売したり、栗林を作って飢饉にあえぐ百姓を救済し、さらにその栗林を幕府に献上し、御栗林とした。こうした平右衛門の才覚は大岡の目にとまっていた。
 大岡は、代官・上坂安左衛門政形に平右衛門と協力して農民救済に当たるよう指示した。平右衛門は蓄えていた食料を「お救い米」として小金井橋に運び、小金井地域の名主と協力して粥の炊き出しをした。平右衛門は殺到する群衆を押しとどめ、子どもや女、老人を優先し、おだやかな笑顔でまず粥を食えと語りかけた。粥をすすり、食料を受け取った群衆はいつの間にか笑顔につつまれた集団に変わっていた。小金井橋のお救い米配りは、幕府の中でも大きな話題を呼び、幕府はその功績を讃え、平右衛門に銀10枚の褒美を出すとともに苗字帯刀を許した。  
④平右衛門、武蔵野新田世話役に 自ら創った仕組み成功 全てを任される
 上坂は大岡の命を受けて、平右衛門に新田世話役をやってくれぬかと打診した。しかし、平右衛門は村の運命を預かる名主であり、どう対応したものかと迷った。平右衛門は、押立村名主を弟平蔵に譲り、武蔵野新田世話役を引き受け、新田開発の拠点(陣屋)のある小金井へ。
 平右衛門は一軒一軒農家の実情を調べて歩いた。凶作の傷跡は深刻だった。どうすれば村人の活力を蘇らせることができるか。貧しいからこそ助けあって、生産性を高め、生活を豊かにし、幕府への年貢を増やすことはできないか。助け合いの精神を育て、安心して働ける村にできないかと考えた。
 農民のやる気を起こさせるために 、平右衛門は幕府から出る資金を補助金として農家に配ることはしなかった。町人などに年利1割で貸付け、その利子を農家に「畑養料」として貸しつけた。返済は収穫した雑穀を収めさせ、それを貯蔵しておき、飢饉のときに使った。余ったのは販売し、 新田開発に当てたり、農民救済に使った。こうした成果が認められ、平右衛門は南北82ケ村の新田開発を全て任されることになった。  
⑤平右衛門の創った仕組みによって百姓はやる気をおこし、村は活気づく。
 次に、平右衛門は「芝地開発料」の実施に踏み切った。食料の不足している百姓には夫食を支給して未開発地を開墾させ、開墾者の土地とする。3年間は年貢を免除する。6割に換金率の高い雑穀を植え、実ったら百姓の取り分とし、残りは市価より高い価格で代官所が買いとった。その支払い代金のかわりに安値のときに一括購入しておいた肥料を渡した。残り4割は紫草を植えさせ、これを代官所への返済収納分とした。畑養料と芝地開発の2方策によって代官所に集められた雑穀は、市場で換金され、新田開発の財政を支えた。平右衛門が考案したこれらの制度は、幕末まで続いた。  
⑥飢饉で逃げていた村人が帰ってきた
 平右衛門がもうひとつ課題にしていたことは、逃げた百姓を村に呼び戻すことだった。村に戻ってくる者に「立ち返り料」として金3両の支給を願い出て、大岡はこれを了承した。これにより人々が次々と村に帰ってきた。  
⑦村は豊かになり、玉川上水の土手に桜を植える
 蓄えられた雑穀は、飢饉対策に使われ、余ると換金され、村の福祉に当てられた。  こうして元文の飢饉で一度はつぶれかかった武蔵野新田82ケ村は見事に豊かな村へと姿を変えた。
 平右衛門は吉野から桜の苗を取り寄せ、農閑期の百姓のための扶食普請として苗場を作った。そこで育てた桜の苗を玉川上水の両岸に植えた。  
⑧平右衛門は洪水に苦しむ美濃の国へ出立つ。小金井は桜の名所に
代官川崎平右衛門
江戸近郊八景の内 小金井橋夕照 歌川広重
 寛永2年(1749年)2月、武蔵野新田開発に携わってから10年、平右衛門は新田開発の治水事業が認められ長年洪水に苦しむ美濃の国に支配替えとなり、江戸を立つ。
 荒廃の大地、武蔵野は豊かな村へと姿を変え、小金井桜は歌川広重の浮世絵となり、江戸の名所となった。
脚本・演出:木村 快  音楽:福沢 達郎
配役:今村 順二、黒澤 義之、藤田 尚希、中村 保好、木の下 敬志、八木 浩司
   みき さちこ、長谷川 葉月、東 志野香、矢川 千尋
ピアノ演奏:松下 菊乃    
(大橋元明)